情報システム部門の仕事は、技術…
情報システム部門の仕事は、技術だけでは語れません。
現場の運用を支えながら、事業部門や経営、外部パートナーとの調整役を担うなど、組織全体を支える役割を求められる仕事でもあります。
こうした経験を積み重ねながら、情シスとしてのキャリアは形づくられていきますが、その道のりに迷いや悩みを感じることも少なくないのではないでしょうか。
IIJが展開する「IIJ 情シスBoost-up Project」では、情シスの皆さんに向けて、知識や視点、前に進むためのヒントを発信してきました。その一環として新たな切り口でお届けするのが「情シスキャリアライブラリー」です。
情シスとしての実務経験も持つノンフィクションライター・酒井真弓氏をナビゲーターに迎え、システム関連部門で活躍してきた先駆者たちの歩みや意思決定、仕事観を丁寧にひも解きながら、情シスとしてのキャリアのヒントを探っていきます。
2回目のゲストは、日本IBMでSEとしてキャリアをスタートし、サンデンでIT管理部長、グループCIOを歴任した辻裕里さん。2019年にSUBARUへ移り、現在は執行役員CIO(最高情報責任者)IT戦略本部長として、社内システム全般に加え、クルマのコネクティッドサービス開発をはじめとするIT領域を率いています。そんな辻さんに、キャリアの原点から、女性管理職がいなかった時代の突破法、そしてSUBARUとの運命的な出会いまでうかがいました。
酒井
辻さんがいると、その場がぱっと明るくなって、みんなが元気になる気がするんですよね。今日は、そのエネルギーの原点が知りたいです。

辻
私は3人姉妹の末っ子で、実家は工場を営んでいました。その会社が不景気で、もう畳むしかないというときに、従業員だった母が、自分の技術で立て直したんです。それを目の当たりにして思ったんです。「順風満帆のときは男性が頑張って、もしものときには女性にも順番が回ってくるのかもしれない」と。
もう1つが、中学生の頃に聴いて感銘を受けた、落語の枕(本編に入る前の小話)です。女性が幸せに生きていくには、10年ごとに変化していくことが大切だ――20代は素直に吸収できるかわいい人。30代は周りと調整できる賢さを持った人。40代はリーダーとして周囲を盛り立てながら、自分の力で稼ぐ人。そして50代は、すべて分かった上で優しくあれる人。「なるほど、これなら私にもできるかな」って。
酒井
実際にはどうやって切り替えてきたんですか?
辻
2、3年前から準備するようにしてきました。40代でリーダーになる前も、試験を受けたり、ポジションを移ったりと、助走期間があったんです。課長になったから課長の仕事をする、ではないんですよね。課長になれるような仕事をしている人に、その役職が回ってくる。これって実は、性別に関係なく「人が幸せに生きていくには」って話だと思うんです。
酒井
大学では化学を専攻されていたとか。
辻
そうなんです。理系ではあるのですが、情報系はどうも苦手で。結局、単位を落としました(笑)。
酒井
それなのに、新卒では日本IBMに入社したんですね。
辻
情報系は、一から学ばないと分からない領域だなと。もう30年以上前ですが、「これからはITのスキルが絶対に必要だ」という確信はあったんです。だったら一から学べる会社がいいと、日本IBMに入社しました。
いざ入ってみたら、SEは天職でした。漠然とした困りごとを仕組みで解決できるじゃないですか。私は効率が悪いのが大嫌いなので、性に合っていましたね。その後も、キャリアの岐路に立ったときはいつも「今は苦手でも、いずれ必要になる方へ」という観点で選んできました。
酒井
成長を実感したプロジェクトは?
辻
1年半ほど担当した、とある金融機関のプロジェクトです。お客さまが、マネジメントのいろはを教えてくださいました。「出て行け」と言われたこともありますし、「明日からお前はリーダーじゃない」と言い渡されたこともあります。時代ですね。ただ、根っこには愛情があったんです。だから、きちんと反省ができましたし、自分のやり方を素直に見直すことができました。
酒井
日本IBMで叩き込まれた考え方はありますか?
辻
「THINK(考え抜け)」ですね。会社のいたるところに、そう書いてあるんです。要件を聞いて、それを全部入れたものを作れば正解、ではない。顧客が期待した以上の良さをプラスして、もう一段レベルを引き上げる。リーディングカンパニーでそれを経験できたことは、間違いなく今につながっています。
酒井
日本IBMに勤めながら、起業もされていたそうですね。
辻
根底にあったのは、キャリアに対する危機感です。当時は女性活躍推進のような動きはなく、優秀な女性が結婚や出産でどんどん辞めていくんです。数年かけてやっとSEの初級になって、これからというときに、です。もったいない。いつか自分もそうなるのかと怖くなりました。IT以外の軸を持ちたいという気持ちもありましたね。そこで、友人と女性の就業支援をする会社を立ち上げたんです。
酒井
平日はSE、週末は経営者。休みがないじゃないですか。
辻
それが、平日は東京でSE、週末は地元で就業支援、そして主婦業。この3つが、私にはちょうどよかったんです。どれかがうまくいかないときでも、どれかはうまくいく。どれか1つしかないほうが怖いと思いましたね。複数のペルソナを持っているほうが冷静でいられるし、それぞれの場で違う自分に出会える。そんなところにも楽しさを感じます。
バランスが崩れたのは、子どもが2人になってからです。自分のキャパを超えてしまい、会社はいったん閉めることにしました。でも、仲間と「いつかまたやろうよ」という話はしています。
酒井
キャリアのターニングポイントになった出来事はありますか?
辻
地元の製造業であるサンデンに移ったことですね。外資系IT企業と日本の製造業では、カルチャーが全然違うんです。前職のスタンスのまま入ったので、ちょっと浮いていました。
あるとき女性の先輩に、こう言われました。「この会社ではどんなに頑張っても女性は管理職になれないんだから、頑張りすぎない方がいいわよ」。無理しないでという愛のある忠告だったと思います。でも、逆に火がつきました。待っていてもロールモデルは現れない。自分がなろうと。
そこへ、ようやくチャンスが巡ってきました。人事の女性と2人、そろって課長になったんです。ただ、男性ばかりの管理職の会議に馴染むには工夫が必要でしたね。最初は「男性更衣室を覗かれている気がする」と言われたことも。
酒井
その壁は、どうやって取り払っていったんですか?
辻
女性の存在が目立たないように、荷物をすべてモノトーンにしました。女性2人は絶対に並んで座らない、というのも徹底しました。そして、半年ほどたって周囲が見慣れた頃に、花柄や色が付いたものに戻したんです。今度は女性がいることをアピールするフェーズ。他の女性社員にも、「好きな格好をして、好きな色の物を持っていいんだよ」と言えるようになりました。そういう時代でしたね。
酒井
そういう時代に辻さんたちが頑張ってくださったから、今があると思います。
辻
私も先進企業の女性たちが頑張って変えてきてくれたのを知っているので、途切れさせちゃいけないなと。そんな気持ちもありました。
酒井
SUBARUとの出会いは?
辻
ちょうど50歳のとき、あるシンポジウムで、当時の社長だった吉永泰之さんの講演を聴いたんです。私は群馬県太田市の生まれですから、SUBARUは「ザ・地元の製造業」というイメージ。ところが講演を聴いて、その先進性やものづくりへのこだわりにびっくりして。
講演後に、ロビーで吉永さんと名刺交換をさせていただきました。「地元の企業だと思っていたのに、こんなにかっこよくなって、どうしたんですか」って。怖いもの知らずですよね(笑)。その直後、ちょうどエージェントから話があり、入社を決めました。
入社後、衝突実験に立ち会って、改めてSUBARUのすごさを実感しました。ものすごい音とともに、車体はぐしゃぐしゃ、ボンネットもドアミラーもボロボロ。それなのに、ダミー人形はまったくの無傷なんですよ。その瞬間、「大切な人を、この車に乗せよう」と思いました。その週末には1台買っていたくらいです。
同時にフラッシュバックしたのが、19歳のときの交通事故でした。とても大きな事故だったのに、私は骨折もせず、隣にいた子も無事でした。あのときのクルマも、SUBARUだったんです。だから今度は、この安全性を伝えていきたい。そして、その安全性を作っている社員を守りたい。それが今のモチベーションになっています。
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